幼児教育とグローバル基準の保育

幼児のファンタジーな世界と無限の可能性。小さな発見やフローの積み重ねからイノベーティブな未来を創る。有能感を持った自立した人間として、生涯を通して学び続ける資質を持って成長できるよう、今しかできない幼少期の土台作りを支援します。



デンマークの教育に学ぶ③

自由自在の授業風景

「起立」とか「これから授業を始めます」はない。いっせいに話を聞く時は、先生を囲むように座っている。おしゃべりをしていると、「シー」と注意される。でも先生はどならない。それぞれが課題をやるときは、教室のすみっこでもいい、廊下でもいい。

フランスの視察グループから、教室の外の廊下で勉強している子どもたちについて、「あの子たちを監督しているのは誰ですか?」という質問があった。私が「教室にいる先生です。」と言うと、「どうしてそんなことが可能なのでしょう。私たちの学校でそんなことを許したら、子どもはどこかへ行ってしまうか、家に帰ってしまうと思います。」と言っていた。

『デンマークの教育に学ぶ』 生きていることが楽しい [大型本] より

この自由自在の授業スタイルを日本の小学校が形だけ真似をすれば、おそらくほとんどのクラスは授業が成立せず、学級崩壊を起こすクラスも少なくないことでしょう。しかしながら、私は、北欧の人たちだからできる特別なこととは思っていません。
幼少期から「自己決定の尊重」と「対話の継続」という柔軟な環境が、簡単ではありませんが絶えず子どもたちに与えられれば、自分が最高に学べる環境を自分で見つけられるようになっていきます。大切なことは大人の忍耐力と発想の転換でしょう。

先週、偶々、見かけた場面で興味深いことがありました。先生が年長の子たちを音楽の活動に誘うと、少し面倒くさそうにする子たちもおり、最初はノリノリの雰囲気ではありませんでした。歌うために「立ってください」というと、(朝のスピーチで行っているように)椅子の上に立とうとする子がいました。それを見かけた先生は機転を利かし、「みんなで椅子の上に立って歌ってみようか」と誘導すると、何ともみんないつもより真っ直ぐにビシッと姿勢正しく楽譜を持って立ち、息もピッタリ揃って階名で「第九」を清々しく歌い上げることができました。そして、次に、座って行ったピアニカ演奏でもその効果は持続し、友達と協奏する気持ち良さを感じるものへとつながりました。


その姿を見た時、25年前に観た、ロビンウイリアムズ主演のDead Poets Society「いまを生きる」の有名なシーン(先生が生徒を机の上に立たせるシーン)を思い出し、まさか自分の園で同じような光景が見られると思わず、一人感動していました。子どもたちは、きっと別の違う視点から(音楽がつくり出す)世界がみえ、グルーヴを見つけたように自分をフィットさせたのでしょう。


話は変わりますが、禅の世界には「調身・調息・調心」という言葉があります。心を正すためには、まず姿勢を但し、次に呼吸を整えれば、自然と心も整ってくるという順序でもあります。これは、保育や子育てにおいても大変活用できます。私たちはつい言葉に頼って子どもの心を動かそうとしますが、姿勢と呼吸が整っていないと大抵の場合心まではついてきません。反対に姿勢と呼吸が整うと、こどもは自ら気持ちも入れ替えようとすることがよくあります。
海外で教育や子育てをされている方々も、困ったときにはぜひこの禅の教えを参考に意識してみて下さい。



デンマークの教育に学ぶ②

性の教育

「小学1年生から折に触れて教えます。6年生、7年生で性病や避妊を教えます。教員はその養成課程で性教育について学んでいますから、みんな教えることができますが、本校では、生物の担当が中心になって性病や避妊などについて教え、担任と体育の教師が協力する形で教えています。」
~『デンマークの教育に学ぶ (かもがわ出版)』から引用~


私の園の幼児たちも6歳になって歯牙交代期に入ると、突然、性による体の部分の違いに興味を持ち始め、面白おかしく一日中言葉にしているような時もあります。私たちは「恥ずかしいからやめよう」「大切な場所だからふざけて言うことじゃないよ」と子どもの言葉を一生懸命抑えようとしますが、結局はその場しのぎであり、また数分後、数時間後には繰り返されます。抑えるだけの対応では限界を感じます。

デンマークの小学生への性教育の実践でとても興味深いと思ったのは、「生物」の先生が中心になっているということです。子どもはカブトムシを飼育すれば、雄と雌がいなければ卵はできないと必死になって両方を見つけようとするし、野菜の栽培体験ではおしべとめしべが受粉しないと実はできないことを体験から生命の論理として学べるからです。
このような観点で小学一、二年生から性について学んでいく方が、第二次性徴期の直前になって人間の体に起こる化学反応のように学ぶことより、遥かに日常生活において“助かる”と思います。(私がもし小学校の校長であれば、すぐにでも理科の先生にカリキュラムを作ってもらうようお願いをしていると思います)。その「助かる」という理由を以下に書きます。

子どもは歯の生え変わり始めで骨格と共に男の子は「男子」へ、女の子は「女子」へと身体の変化が精神の成長を「強迫」します。そして、11歳~14歳ぐらいなると、身体的には早くも男子は「男性」へ、女子は「女性」へとこれもまた本人の意思とは関係なく身体が精神を「強迫」します。
文部科学省は実質的には22歳で大人になることを一般化しようと勧め、経済化された社会は「恋愛はいつでもできる」「恋愛は別にしなくてもいい」と語りかけますが、“身体科学省”はもう7歳にもなれば"大人化プロジェクト"をどんどん勝手に進行させており、中学生にもなれば本人の意思や希望とは関係なく『早く異性を見つけなさい』と身体が精神を強迫します。(精神の発達上で「強迫」という言葉を使うのは、本人の意思とは関係なく起こるという意味からです)。

平均寿命が80歳の時代になり、教育はいつでも受けられ、結婚も急ぐ必要がない時代になっても身体の発達は待ってくれず、むしろ早熟化している傾向です。「若いうちは勉強やスポーツにだけ励んでいればよい」と、こうした事実や発達上の理論に見て見ぬふりをし、身体の現実とのギャップを広げていることが、社会の様々な問題とつながっており、ひいては少子化問題にもつながっているのではないでしょうか。


参考:





ショウ・アンド・テル 続編④

お当番が自宅からお気に入りのものを持参して行うスピーチは、昨年度の出だしこそは順調だったものの、今年度の1学期は年長児の全員が自宅から好きなものを持って来れる当番の日は楽しみにする一方、“なにを話したらいいんだろう?”という状態に入るスランプの時期を迎えました。全く自分の言葉で語れなくなってしまいました。


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ファンタジーの正体 ~7万年の功績~


あけましておめでとうございます。
好奇心から行った最近の読書から思いがけぬ発見がありましたので、新年最初の記事はそれについて書きたいと思います。


幼児はなぜファンタジーな能力をもっているのか
生まれて3年ぐらいしかたっていない幼児がなぜ架空の事物を想像したり、見たことも、触れたこともない世界を想像しながら物語を作ったりできるのでしょうか。特定の遺伝子を持つ子だけに存在する能力であれば不思議ではありませんが、遺伝や性格を越えてほぼすべての子が生得的にその能力を持っています。当たり前のように見なされていますが、これは本当はとても不思議なことであり、なにか理由があるのではないでしょうか?

「自己中心的な思考」ですべてを説明できるか?
保育や教育の教科書では幼児期の思考の特徴としてファンタジーに通ずるのは「アニミズム」(すべてのものに生命や意識があると考えること)や「相貌的知覚」(事物を人間に見立てること)等が名称として紹介されていますが、それらはピアジェが提唱した「自己中心的な思考(自己中心性)」という傘のもとで説明されています。モンテッソーリがいう本物を知ってからファンタジーをという論も私には分かりません。
これらの思考や知覚の特性は“主観と客観が未分化のために生じるもの”として、未熟さゆえの混同のように教えられていますが、これでは生まれて数年しか経っていない幼児が全く存在しないものについて想像できたり、見たことも触れたこともない神話を共有できたりするという説明には不十分ではないでしょうか。
人間の発達段階を生物学的に考えれば、ファンタジーな能力が芽生えるのは、ひと通り身体の機能が育ち、思考も具体的な操作が十分にできるようになってからでよいはずです。形式的操作や抽象的思考ができるようになる11歳ぐらいからが適切と感じるにも関わらず、なぜ3歳前後の幼い子どもたちがこれらの能力を持っているのでしょうか?

サピエンス全史」から見えてきたこと

ビル・ゲイツやマーク・ザッカーバーグが絶賛したという「サピエンス全史」は、なぜホモ・サピエンスだけが生き延び、繁栄したのかについて解き明かそうとする書籍であり、歴史学者の筆者はサピエンスだけが7万年前に『フィクション』を作り出せる認知能力を持ったから生き残れたという論を上下巻を通じて社会的、経済的、宗教的な視点から丁寧に説明しています。
サピエンスよりも筋肉が発達し、大柄で逞しく、氷河時代にも適応していたネアンデルタール人が絶滅し、また、手指に技術があり、火も使いこなせたホモ・エレクトスが絶滅したのも、それらの種には架空の事物や想像上の現実について語ったり、共通の神話を集団で信じたりする能力がなかったからと興味深い見解を示しています。
私たちの脳の容量は20万年前からほとんど変化していないこと(1200~1400立方cm)が考古学や歴史研究から明らかになっています。私たちが文化的に日本人の特徴や性質を語る場合には「我々は農耕民族だったから」と語られることが多いのですが、農耕が始まったのは人類の歴史では浅く、サピエンス全史でも農業はまだ1億2千年前に始まったばかりであり、現代の我々の脳や思考はそれに対応できていないものとして数々の例を上げながら触れています。

“生きる力”の定義は何か
サピエンスだけが生き延びる鍵となった“物語を理解し、創り、神話を共有できる力”の芽が生まれて間もない私たちの脳にしっかりと組み込まれていることこそ、進化の源ではないでしょうか。仮説にすぎませんが、生きるために最も重要だった能力だったからこそ、食事を自分で調達したり、生活に欠かせない手指の技術を身に付けたりする前に我々に宿っているのではないでしょうか。これは集団に適用する力(秩序や規則を求める本能)はわざわざ教師が教えなくても生得的に持っているという論にも一致します。
小中学校の学習指導要領、幼稚園教育要領および保育所保育指針では「生きる力を育む」ということが近年、主要なテーマとなっていますが、具体的なことは共有されておりません。
先に触れた通り、逞しい肉体をもった人間の種も、手指の技術に卓越した人間の種も、絶滅しました。子どもが友達と架空の物語を創ったり、想像の世界を交換し合ったりする「ごっこ遊び」や自由な時間を削ってまで、スポーツ漬けにさせたり、勉強漬けにさせたりしている現実は、もしかしたら「生きる力」を削っているのかもしれません。
サピエンス全史の筆者、ユヴァル・ノア・ハラリ氏は、“フィクションを創作する能力が急速に変化していく問題に社会的行動を適応させることができた”“人間の大規模な協力体制は何であれ、人々の集合的想像の中にのみ存在する共通の神話に根差している” と説得力のある論を展開しています。
「生きる力を育む」とは何なのかを考える上では、人間が進化の過程で生まれながらに持っているものについて深く考えることも大切でしょう。
逆に考えれば歴史学者や考古学者も幼児の特徴を細かに研究すれば、大昔のことについてもっと大きな仮説的発見があるかもしれません。
 

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福
ユヴァル・ノア・ハラリ
河出書房新社
2016-09-08


サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福
ユヴァル・ノア・ハラリ
河出書房新社
2016-09-08



参考記事:

幼児教育とごっこ遊び
http://innovative-sprout.com/archives/1055033036.html

幼児教育と音楽表現
http://innovative-sprout.com/archives/1051928017.html

ファンタジーの世界

幼児園First Classroom 保育方針




デンマークの教育に学ぶ ①




かつては戦争をくり返しながら、第二次世界大戦ではドイツにも占領された人口550万人の小さな国、デンマークには欧米の大国に飲み込まれてはならないという気概が、幅広く国民に浸透しているように感じます。

表題の書籍「デンマークの教育に学ぶ」から、私が特に印象に残った点について、日本の子育て現場との価値観の違いに触れて書き綴りました。


“食事も昼寝も散歩も、無理やりやらせる必要はない”

「ずっと散歩に行かない子がいたら、なぜかな?と考える。
遊んでいて集まらない子もいる。"そのうちお腹がすくでしょう。"
外に出たがらない子がいたら、外で楽しく遊んでいる子どもを見て引き込まれていくようにする。」


日本の保育園または幼稚園などの子育て現場ではこのような子どもたちに対して、まずどう思うでしょうか?食事をしたがらない子、昼寝をしたがらない子、散歩をいやがる子は必ずいます。それに対してどのように接するかと考える前に、どのように思うかの議論やコンセンサスも大切ではないでしょうか。


“私たちは子どもに話すのではなく、子どもと話すよう心がける”

「保育士は、子どもと同じ目線に立ち、子どもの意思を尊重した接し方をする」

『子どもに話すのではなく、子どもと話す』という言葉には、ハッと気づかされるものがあると思います。私たちは日々子どもと接している中、どれほどの時間、心に特定の意図を持たずに子どもと向かい合うことができていますでしょうか。どんなに寄り添っているつもりでも、恣意的な意図を持って話しかけてくる大人に子どもは心を開かないものです。この言葉は保育の基本として見習うべきものを感じます。



“自分で量を決めさせ、確かめる体験をさせる”

「アイスクリームを食べる時、一人ひとりに『これぐらい?』『もうちょっと』と聞きながらよそっている。
自分で量を決めさせる。食べ終わったら「多すぎた?」「ちょうどよかった?」「少なかった?」と確かめる体験をさせて、判断力のある子が育つようにしている。
(幼児グループは12~13名を3名の大人がみている)」


私たちは子どもに自分で選ばせたり、決めさせたりすることはできても、つい、その後のフォローの言葉を忘れがちです。この例のように「多すぎた?」「ちょうどよかった?」と聞いて、気づかせて初めて判断力が養われるいうことを認識しなければなりません。



“連絡ノートはつけない。トイレトレーニングもしない”

「親とは直接話すことを大切にして、連絡ノートはつけない。乳児がおむつを外す時期も“子どもがトイレでしたい”とシグナルを出したら対応する。トレーニングはしない。
職員の健康、腰痛防止のため、おむつ交換台はボタン操作で上下する。」


幼いときから対話を大切にされて育った大人たちのコミュニケーションへの自信、労働に対する社会の考え方などが、連絡ノートなしでやっている背景にあるものと思います。乳児の排泄においてもしっかりと子どもの意思を尊重するということは、実は幼児期の自立的な育ち方へ大きな影響を与えていることと思います。0歳児、1歳児の保育にも哲学や将来ビジョンへの思想が大きく影響します。



次回、続き②を書きます。





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