幼児教育とグローバル基準の保育

幼児のファンタジーな世界と無限の可能性。小さな発見やフローの積み重ねからイノベーティブな未来を創る。有能感を持った自立した人間として、生涯を通して学び続ける資質を持って成長できるよう、今しかできない幼少期の土台作りを支援します。



自然と子ども

1,200人が参加する田植え行事に今年も年長と年中の園児たちが参加しました。気温は夏日となるまでに上がりましたが、子ども達には気力、体力ともに十分な準備ができていました。参加する園児たちは昨年の年長が体験したことを写真やお話でよく知っていたのでこの日を待っていました。

田んぼは大人でも歩行が思うようにできない中、恐る恐る進む子、自分から豪快に飛び込む子等、それぞれの姿がありました。幼児の体の1/4もしくは1/3が埋まってしまう泥の状態は、子ども達には恐しい底なし沼のようにも見えたことと思いますが、最初入りたがらなかった子たちも最後には好奇心が勝ったようで半分顔をひきつらせながら入ってきました(笑)。
しりもちをつき、上着まで泥、顔にも泥、全身が泥まみれになりましたが、苗を植えるという仕事(米を作って年下の園児たちにも食べてもらいたいということ)には幼児なりに責任感を抱いているせいか、恐る恐る植えている子もしっかりと最後まで自分の意思でやり遂げてから「もう終わり!」と言って外に出ました。年長の子は、昨年、稲刈りをした後にお米を取りいったことまで具体的に覚えており、一連の流れを言葉にしていました。また、初めて参加した園児たちの中にも一度田んぼを出た後に「もう一度やりたい」と再び田んぼに入り、次々と苗を植えていく勇敢な姿もありました。
日頃から公園で衣服を汚して遊ぶことになれている園児たちもこれほどの体験は日常にはないので記憶にも残る思い出になったことと思います。過去には田植えをきっかけに様々なことに抵抗がなくなって挑戦的になった子もいました。子どもの意欲や挑戦心はなにをきっかけに伸びるか一人一人違い、案外大人が予想するものとは違うものです。

田植えの後は、泥だらけの衣服のまま自然の水路に入って遊ぶことも毎年恒例になっています。水田の周辺はあめんぼやタニシ、ザリガニ、かもなど学びの多い“教材”があふれており、田植えの体験を通じてそれに触れられるのは大変有難いことです。都市の中でも体験ができる貴重な自然環境の保全に感謝をしています。
少人数グループだからできる幅広い体験学習を、今後も更に充実できるよう努めて参りたいと思っています。

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フロー理論と幼児教育

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幼児に内発的動機を尊重する環境を整えると、持続的に集中状態を保とうとする「フロー」と呼ばれる姿が早かれ遅かれほとんどの子に現れます。それを繰り返すごとに意欲や自信のステージは上がり、様々なことに主体的に関わりながらその対象が変化していきます。この過程は「フローの階段を登る」とも言われており、個性の芽の出始めや他人と円滑な関係を育んでいくための情緒の安定とも深くつながっています。

フロー理論は、ハンガリーの心理学者であるチクセントミハイ氏が提唱する発達の概念ですが、マリアモンテッソーリはその名称が付けられるかなり前に子どもの様子の驚くべき変化からその体験の重要性に着目して観察を続け、自身の教育法の柱に据えました。“集中状態に入っている時は絶対に止めてはならない”というのはなぜか、フローとはどんなメカニズムか、フロー体験を習慣化するとどうなるのか、しないとどうなるのか、マリアモンテッソーリら幼児教育や発達心理における先駆者による考察を引用する形で以下にまとめました。


フローとは?
子どもがひとつのことに夢中になって、我を忘れて、何かに取り組んでいる状態。フロー(没入を伴う集中状態)に入ると周りの声や音も聞こえないぐらい集中する。

フローのメカニズム
内発的動機から生まれる没入感覚。強制されることなく、自由な状態でこみ上げてくる自身の欲求に従った行動。押し付けられたもの等、動機が外発的である場合には「フロー」には入れない。フロー体験を重ねるには自分で課題を見つけ、調節できる習慣や力が必要。

フローの特長
ある特定の事柄に対して、ある特定の時期(臨界期または敏感期といわれる)に現れる。一つの目的が無事に果たされるとその感受性は消え、また別の事柄へと感受性が移っていく。


フロー経験を重ねた子の様子
・自発性が芽生え、「やればできる」という自信と忍耐心が表れる。
・運動器官(特に手や指先)の差が、器用さに表れ、身のこなしがよくなる。
・観察力や注意力が増し、より高い技能が身についてくる。
・情緒が安定し、他人への思いやり、協調性が表れる。
・規律と秩序を重んじ、従順さが養われる。


フローを経験しない子の症状
・動きが激しく、怒りっぽく、独占所有欲や嫉妬深さに表れる。
・手の動きをうまく統制できないため、落としたり、壊したりすることがよくある。
・弱い子どもや動物に対して残酷な仕打ちをする。
・無感動、無気力、表情が乏しい。
・依存心がつよく、怖がりで、暗闇を極端に嫌う。嘘をつく。


フロー経験を重ねた子の将来
・短い期間で高い集中力と発展性を発揮し、新しい知識や技能を身につける。
・自分で目標をつくり、他者比較や評価に依存しないで動機づけられる人間になる。
・自己肯定感が高く、他人を思いやり、全体に対する配慮ができる人間になる。


日本の幼稚園や保育園の現場では「おしまいで~す」「もう時間です」と一斉に終わらせることが多く、もちろん、そうしなければならない時も当然ありますが、それがあまりに多かったり、いつも子どもが集中しているタイミングで遮ったりしていれば、それは“逸脱発達”(上記「フローを経験しない子の症状」)を引き起こす原因にもなるということを関係者は肝に銘じて欲しいと思います。子どもに“集中力がない”“協調性がない”という状態をつくっているのは、もしかしたら無自覚的に作っている環境のせいかもしれません。
スケジュールの組み方に無理がないか、集中している子だけ5分や10分の時間を与え、次の行動の開始が遅れて何か問題があるか、毎日多忙な中でもできることはあると信じて常に環境を振り返りたいものです。

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参考図書(クリックするとアマゾンのページへ移動します)



登山から得るものは?

昨年、年長児と一緒に2回目の登山をした時のことですが、頂上で少し喜びを感じたと思ったら、下山し始めた時にはそれをもう忘れたかのように次に登ってみたい山のことややってみたいことを語り始める姿がとても印象に残りました。
余韻や実感に浸ろうとしない子どもの姿を見、山登りで“達成感”を感じるという見方に疑問を感じていたその数日後、話は変わりますが、出資支援者でもある友人がゼロから創業した会社を長い年月の末に一部上場させました。偶々ですが、その時の短い挨拶文が自身の起業前の「登山体験」に重ねたものであり、大変興味深かったので紹介させていただきます。

「多くの方々にご声援いただき、ありがとうございました。
僕は1992年にインドヒマラヤ ホワイトセ-ル峰に登頂を果たしました。
 今は、そのときの気持ちと少し似ているかもしれません。
他の登山隊により登頂はされていたものの、我々は南東稜から未踏のルートを開拓して登頂を果たしました。
しかしながら、山頂にたどり着いたときには、登頂を実感する間もほとんどなく次への計画を考え始めていました。
まだまだチャレンジすべき山や未踏のルートはいくらでもあります。
ビジネスも人生も同じ。
次の困難にたちむかうことこそが楽しみです。」


今週、年長児と今年度初めての山登りをします。小さな100mの山ですが、昨年の年長児は後に経験した高い山よりも思い出となっているようでした。今日は担任の先生から当日についてのお話もし、より期待を高めているようです。子ども達が何を感じ、発見してくれるか楽しみです。



母の日

どんなに献身的に保育者が子どもに接しても、または父親が優しく面倒見がよくても、子どもは体調が悪かったり、困難に直面したりして声を出して泣く時には必ず「ママ~」と言います。「先生~」や「パパ~」とはまず言いませんので、母親という存在の大きさをつくづく実感します。

母の日を前に子ども達が大好きな「お母さん」に関する絵本の読み聞かせ、会話を通じての表現活動の機会を園で設けますが毎年それに大変意味を感じています。形式的に何かを作り、贈ることであればあまり価値はないと感じますが、離れていても、忙しくても、叱られても子ども達の心の中にはいつもお母さんの存在があり、その気持ちを表出できる機会があることは子ども達にとっても嬉しいものです。


子どもは決して“完璧なお母さん”や“理想的なお母さん”を求めているのではなく、また、母親に何か素晴らしいことをしてもらいたいと期待しているわけでもなく、ありのままの“不完全なママ”が大好きです。「母の日」はお母さんが自分を大切にする日でもあってもらいたいと思います。


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幼児教育における表現活動

人間形成における土台づくりを目的とした幼児教育で「絵画」「造形」「音楽」「発表」などを実行していく際、それらは自己の“表現活動”として行われる必要性があります。その基本は、自分は何をしたいのか、自分は何であるのかを、手指や身体の動き、外言*等を伴って探す体験であり、その積み重ねが自己形成や自己肯定感、将来の論理的思考や抽象的思考の土台になります。
本来、幼稚園、保育園で行われる製作や音楽、発表などの活動は、特定の分野での能力を伸ばしていく専門教育や習い事とは目的が違うということをしっかりと区別する必要があります。そこが曖昧なままに計画が立てられ、実行されていくと“手段が目的化”してしまい、小学校低学年ぐらいまでしか役に立たない中途半端な前倒し成果で終わってしまいます。(私は、一年間考えた結果、幼稚園や保育園の先生が好んで使う、気がつくと手段が一人歩きしやすい「製作」という言葉を今後使わないように、先日、担任の先生たちにお願いをしました。快く同意してもらえたのでホッとしました・笑)

6、7歳ぐらいまでの幼児は、“自己中心性*”という主観と客観の区別が未分化の状態にあります。自分の視点や経験のみを中心にして物事を捉え、自分の内面(中心)に向かって爆発的なパワーを注げるのはこの時期しかありません。この時期を過ぎると、“脱中心化*”と言って子どもは他人の視点に立ったり、自他の経験を相対化したりすることが発達段階的にできるようになりますが、それまでに思考や身体と共に試行錯誤しながら自己表現を積み重ねてきた体験が薄ければ、子どもは脆弱な土台の上に立った家で嵐を迎えるような状態に置かれます。

幼児は考えていることを頭の中だけで試行錯誤することができません。5歳ぐらいになると、他人の視点も少しずつ分かるようになるので大人から見ると頭で考えを操作できるようになっているように見えますが、発達段階としてまだほとんどできません。思考の操作能力は言葉ほどに育っていません。また、「考える力」を育てようというのが時代のブームになっていますが、プリント学習やクイズのような形式のものでは反射的な思考力しか育ちません。拡散思考力や論理思考力は、幼児期には手指や身体の動き、外言を伴って育まれるものであり、本来の表現活動はそこに大きな役割を果たすことができます。幼児期の表現活動が、初等教育の図工(美術)や音楽へのつなぎとしての学びではない理由がそこにもあります。
また、11、12歳ごろから必要とされる抽象的思考力のベースになるのは想像力や創造力であり、幼少期に課題ばかり与えられて自分と向き合う時間が持てなかった子はその思考力が弱いとも言われています。


表現活動とは生の喜びを表現する手段でもあると子ども達の姿から感じます。幼児が自分の意思で手指や体を十分に動かしている時の表現活動は、それが例え援助者(指導者)の目的と違っても生き生きとしており、発展の連続性が期待できます。「達成感」とは何気ない日常生活の中で子ども自身が獲得していくものであります。援助者が描いたゴールを通過できても、発表会を経験しても、身につくのは一種の社会性への自信だけで子どもは大人が思っているほど「達成感」は感じておりません。
表現する喜びを積み重ねて成長する子ども達を見させてもらいながら、改めて表現活動とは何のために、どこに向かっているのか、幼児教育における目標を忘れないようにしたいと思っています。


*「外言」 ヴィゴツキーの理論を引用しています
*「自己中心性」「脱中心化」 ピアジェの理論を引用しています

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世界基準の幼稚園 6歳までにリーダーシップは磨かれる
橋井 健司
光文社
2017-10-17
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橋井健司。保育士・研修指導講師。新教育デザイニング株式会社 代表取締役。社会福祉法人の監事。

著書
「世界基準の幼稚園~6歳までにリーダーシップは磨かれる」
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