昨日行われた英国の国民投票はEU離脱支持が過半数を上回り、世界を驚愕させる出来事となりました。早くも独立を求める地域や同様に離脱を希望するリーダーなどが欧州各地で声を上げています。20年後、30年後、国家の枠組みや地域同士の関係などはどのようになっているのでしょうか?一生の間に何回か所属している国の名称が変わったり、それに応じて法律やルールも次々と変わったり、そもそも国家の概念が変わったりすることも、子ども達が大人になった時には普通になっているかもしれません。

さて、幼い時から自分の考えや思いを堂々と伝えられる環境を作り、対話によって物事が決まる過程を習慣的に体験すると、年長ぐらいになれば先生への提案や交渉ぐらいは出来るようになります。どこまでなら交渉可能か、どんな理由づけがあれば先生を動かせるか、いつも自ら行動しないと楽しい時間を得られず、また、行動しない権利も与えられる子ども達は、6歳になる頃にはそんな交渉術も身に付けています。もちろん、保育者は常に自分の意見をいう子ども一人ひとりと対話し、説明したり、説得したりしなければならないので大変です。
また、自由時間になれば「○○先生と○○をしたい」と先生の特性や趣向を選びながら、自分で学びたいことを言葉にし、積極的に行動しようとする姿も目立ち始めます。4歳を過ぎれば、保育者はそばにいるだけで嬉しい愛着のみの対象ではなく、子ども達は自分の能力を伸ばす上で「活用できるかどうか」もしっかりと見極めます。活用できないと思えば、先生には承認してほしいときと困ったときにぐらいしか声をかけません。幼児ながらも子どもは自分の成長に活用できる大人を選ぶ能力を持っています。ですので、環境を考える際には物的環境だけでなく、関わる大人の人的環境もとても重要になってきます。

一方、小中高では「脱ゆとり」と称して授業時間を増加したり、選択できる科目を削減したり、“子どもの能力を全く信じない”前提で「生きる力を育む教育」などと言っています。もちろん、「ゆとり教育?」が良かったと言っているわけではありません。そもそも、「ゆとり教育?」は学校側が子どもの学ぶ時間や内容を制限したり、決めたりしたから失敗という結果に終わっただけで、結局、教育する側と学ぶ側という支配構造が変わっていないから「ゆとり」でも何でもありません。私に言わせてもらえれば、「ゆとり」も「脱ゆとり」も親戚みたいなもので、子どもの能力を信じていないという時点で例え学力テストで違いが出ようと大差はありません。実際に、子どもに「ゆとり」を与えて伸び伸びと育てたいと考え、公立小学校を選択しないで私立小学校を選択するという親は沢山います。そんな私立小ほど倍率が高くて中々入れず、「ゆとり」の選択肢は小1の段階で極めて狭き門になりつつあります。


人間は発達段階に応じて適切な援助がなされれば、14歳ぐらい(中学生)になったら身体的、心理的に「クラス」や「学校」に支配されず、20歳ぐらいになったら「国」や「社会」にも支配されないぐらいの自律的な能力を本来は持っています。その根拠を最もよく説明してくれているのはシュタイナーですが、ここでは長くなるので割愛します。(興味がある方は適当な本で読んで下さい。笑) 現状で中高生または大学生の姿がそのようになっているでしょうか?もちろん、幼少期からの積み重ねが必要ですが、初等教育や中等教育は子どもの本来の能力を尊重し、活用できているでしょうか。(「だったら、おまえが小中学校を作ってみろ」と言われそうですが、土地と補助金さえあれば喜んで作らせてもらいます!)

国家の枠組みや権限、ルールが変わる時代には、与えられた課題をこなして上位にいける能力だけでは継続的に幸福な生活を築くことができません。教育が目指している「生きる力」とはどんな環境でも従って生きていける力ではなく、自分自身で課題を見つけ、環境やルールを協働で作っていける力ではないでしょうか?そうであるならば、教育改革はカリキュラムや時間数のことを考える前に、教える側と学ぶ側という支配構造のパラダイムを変える時に来ているのではないでしょうか。